三島由紀夫の憂鬱

 晩秋11月下旬明(あ)赤(か)い日。今年も憂国忌(ゆうこくき)が行われた。
特に右翼というわけでもない私が三島由紀夫の命日に因んだ憂国忌にずと長く思いをはせているのは、私のまさに青年時代、作家として鬼才でもあり誤った解釈をされながらも自ら「楯の会」なる極小軍隊を立ち上げ折しも右傾化していた当時の政府の政策を後押しするかの如き「文化防衛論」を説き、社会派それも似非(えせ)改革派が横行する中とても新鮮な行動として、三島由紀夫が私の中に激しく飛び込んできていたからだった。

 三島が非業(ひごう)の死を遂げたのは周知である。
日本の右傾政策を支持しているかに思わせその実捉(とら)えようのないサプライズをもたらすとは、昭和45年11月25日のその日まで殆ど誰も想像をしえなかった。三島の死は政治的な死か文学的な死か47年経た今でもそれは謎なのだ。

青年時代にその衝撃を受けた私は長く自分なりの答えを出せないでいたが何よりも遺作となった「豊饒(ほうじょう)の海」にいまさらながらに三島の求めた原点を探し出そうと貪(むさぼ)り読み返した。

 「豊饒の海」その評価は当時醜(みにく)いほどに分散しており、ロマン文学究極の小説という最高賛辞から三島文学の疲弊した美辞麗句の羅列という悲しい蔑(さげす)みまで様々であったと記憶しているが、いま三島の死の年齢をはるかに超えた自らの人生観で読み返してみて、残念ながら三島文学の停滞そして三島自身の生としての限界に答えを見つけざるをえない。

遺作の、とりわけ第一章「春の雪」までは映画や演劇にもなるほどの話題作としてとりあげられた。
当時、男と女のプラトニックとはいえないまでもラブロマンスとして華麗に書き上げられている。
絢爛(けんらん)とした皇貴族背景の重々しさや愚話の漏れさえ許されない美的描写が、現代ではとうてい見いだせない女性の奥深い嗜(たしな)みと貞淑(ていしゅく)さが、まるで創られた皇室のありさまのように写り、プラトニックと言いかけたがその内容は、禁断の恋の結果として妊娠し、赦(ゆる)されない立場から中絶してしまう別離までここまではむしろ実に生々しく描かれている。
四部作全てを通してあらゆる多角的評価が存在するが、物語のエッセンスだけをとりあげれば、禁じられた不倫の果て別れて女は出家し、男は怖ろしいほどの生き様と輪廻転生として生まれ変わり、共に生きる友人であった物語のキーパーソンは人生としての老いを表現しながら終焉(しゅうえん)を迎えていく。浜松中納言物語を典拠としていることからもこれは極めて演劇的な小説である。

人は究極のところで輪廻転生をくりかえすのだろうか?男と女のあたりまえのように与えられた正義と悪を混然とさせながら自らの俗念に溺れていく懲りない愚者なのだろうか?

三島が、この小説の最後に求めた有終は輪廻転生をくりかえす物語の最も大切な部分を否定し、俗世の出来事なのか或いは現世を超越した無の中に陥(おとしい)れることで纏(まと)められ自衛隊にクーデターを促し些(いささ)かも受け入れられなかったことで諦め即座に自決してしまった事件に証されているに違いない。狂気ともとれる行動、そして現実には起りえない自衛隊の決起とて、憂国忌として神格化された三島ほどの聡明な天才が読み
とれないほど予測不能な展開とは思えないのだ。
三島はこの結末を充分に予測していたはずであるし、日本の未来を憂って失望した果ての自決と思わせ、真相は自らの45歳という後にも先にもない言わば老醜を迎える前の華々しく散る華燭(かしょく)のごとくむしろ、結末を自刃と決めて行動した戯曲の終焉でもあるのだと思うのだ。

「70年には(1970年には) 私は死ななければならない」とその数年前より口癖のように語っていたがこれも暗示的な吹聴だった。

しかして今に至っても三島が死をもって訴えたかった意味はまだ謎であるとされている。俗人が唱える憶測や不毛な評価を、憂国忌やあらゆる研究の夥しさを積上げ神となった三島が、遥か遠い世界の高みから眺めながら嘲笑している姿が、夢枕灯のように私の脳裏に消えることなくたしかに灯っている。

三島のこの国を想う憂鬱は、そして三島自身が彼方にある叶わない理想に恋慕(れんぼ)し、またその理想の結末のために魂を差し出し数奇な幕引きをした混乱の中で今でも息づいていると思う。

三島が憂えたごとくこの日本は、自主のない他力本願なかなりあいまいな国相に成り下っているのだから。

すべてはまた来年の憂国忌までに課せられた人生の宿題であろうし、それは三島が後世に伝えたかった永遠のテーマなのだと思えば気持は豊かになる気がしている。